廓の生活・言葉

吉原七不思議

5 8月 2008

yoshiwara03.jpg吉原七不思議とは、本所七不思議や八丁堀七不思議の様な歓談じみたものではなく、吉原での出来事や慣習を皮肉った、駄洒落のようなものです。下記に上げる他にも様々な謂れがありますが、代表的な七不思議を掲載しておきます。

新造にも婆あり

吉原の新造には、「振袖新造」という遊女見習いのような少女と、それが昇格した「留袖新造」(このうち稼ぎのいい遊女が『花魁』と呼ばれます)、引退後マネージャーのような役割を果たす「番頭新造」がいます。
読んで字のごとく「新しい」新造の名を持っていても、大年増である番頭新造もいる、ということです。三十過ぎの女性ですがすでに婆呼ばわりされてしまいます。

大門あれど、玄関なし

本来玄関というのはある程度の格式がなければその名前では呼ばれません。
単に家の出入り口である場合には「上がり口」というのが正しかったようです。
門があるほどの格式であれば当然「玄関」になるはずですが、そんな立派な屋敷は廓内にはありません。

遣り手といえども取るばかり

遊廓の因業代表格である「遣り手婆」。「遣る」という字をその名前に持っているくせに、客や遊女からふんだくることばかり考えているとからかわれています。

河岸あれど舟つかず

この河岸はお歯黒どぶ周辺の低級な遊女屋、「河岸見世」のことです。「河岸」ではあっても舟などつくはずもありません。

角町あれど、角にはあらず

「かど」ではなく「すみ」です。
確かに角ではなく吉原の真ん中あたりにある町です。

茶屋あれど、茶は売らず

単なる茶屋違い。直接遊女屋にあがらず茶屋(引手茶屋)に行ってから遊女屋に行くのはお金持ちだけです。
お茶を売るのは「水茶屋」。

若い衆にも禿あり

禿というのは遊女の身の回りの手伝いをする少女たちですが、江戸中期頃までは器量のいい男の子が禿となることもありました。
この男の子はたいていが将来は廓のさまざまな役割を担う「若い衆」になりました。

吉原の言葉

4 8月 2008

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吉原というのはある意味特別な場所。周りを鉄漿どぶに囲まれ、独自の文化や風習が在る浮世離れした場所であった為か、独自の言葉と言うのものが出来ました。
代表的なものに、高級遊女の使う「ありんす言葉」。

吉原には、各地方出身の女性が流入していたため、当然のことながら、各地のお国言葉が使われていたが、それらが混在しては艶消し(色気がないこと)であるというので、やがて優艶な吉原言葉に統一する必要に。
かくて生まれたのが、廓言葉ともいわれる「ありんす言葉」であります。「ありんす」とは吉原の廓言葉の代表で、「あります」を意味します。

各遊女屋によって廓言葉が違っていたり、それをその遊女屋の特色にしていたことは、洒落本(しゃれぼん)等に書いてありますが、オス・ザンス・ナンシ・ザマス言葉など、岡場所(官許の吉原以外の品川・新宿・深川などの遊里)には見られぬ廓言葉が多かったのです。

安永~天明(1772~89)頃から、当時の外国の知識を応用し、吉原を外国に見立てて、ありんす国などと呼ぶことが行われ、川柳にも、

日本を越すとアリンス国へ出る
日本からアリンス国は遠からず【日本は日本堤のこと】
などと詠まれています。

ありんす言葉の例としては


「大かた、内にはおかみさんがござんせうね」
きっと、家には奥さんがいるんでしょうね。


「生まれつきでおすものを」
生まれつきなんだから(しょうがないでしょ)


「後生だから、ちっとものを言わずにいておくんなんし」
お願いだから、少し黙っててくんない


「わつちやァいや」
え~、私ヤダぁ~


「もちっとゐなんせ、まだはやうおざんす」
もうちょっと居てよ、まだ早いわよ


「すかん」
嫌い


「モシヘわつちやたつた一つねがいがござんすよ」
あのね、私一つなんだけどお願いがあるの


「ほんにかへ」
本当?


「嘘をおつきなんし、よくはぐらかしなんすヨ」
もう、嘘ばっか言わないでよ、ごまかしてばっかりなんだから


「あい、お出でなんし、おあがりなんし」
はい、いらっしゃいませ、上がっていって下さい


他にも吉原から生まれた言葉としては、野暮・冷やかし・お茶をひく等今でも常用する言葉がある。

そうだということを そうざます
イヤなことを 好かねえ
やきもちやきを 甚介
男女の交合を 床に入る
月経(生理)を 行水
耳盥を 半蔵
武士のことを やまさん
坊主を げんさん
田舎の人を 旅人衆
商家の番頭を 店者(たなもの)
惚れた男を いい人
茶屋の男の奉公人を 消し炭
買ってくることを とってきな
文使いを 便り屋どん
男女が楽しむのを おしげりなんし
腹の立つを じれったい
つまみ食いを げびぞう
女衒(ぜげん)を 判方
暇であることを あがり

廓の一日

4 8月 2008

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江戸の時代ですから、決まった時刻というのはなく、日の出や日の入りによって昔の時刻は変わっていました。そんな時代の廓での一日や年中行事を見てみましょう。

廓の一日

廓の動き
05:00 07:00 明六ツ 卯(う) 大門を開ける
昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。
朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。
中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。
上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。
07:20 08:40 朝五ツ 辰(たつ) 仕事の始まり
針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。
09:40 10:20 朝四ツ 巳(み) 遊女の起床時間
物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。
座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。
12:00 12:00 昼九ツ 午(うま) 昼見世始まる
昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます
14:20 13:40 昼八ツ 未(ひつじ) 昼見世
昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします
16:40 15:20 昼七ツ 申(さる) 昼見世終わる
この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。
19:00 17:00 暮六ツ 酉(とり) 夜見世始まる
夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。
見世清掻き(みせすががき・単に清掻きとも)という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。
20:40 19:20 夜五ツ 戌(いぬ) 床に付く
賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます
22:20 21:40 夜四ツ 亥(い) 大門を閉じる
鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。
四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。
24:00 24:00 暁九ツ 子(ね) 引け四ツ
正しい四ツ(鐘四ツ)に対してこちらを引け四ツといいます。
各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。
金棒をならしながら火の番が回ります。
01:40 02:20 暁八ツ 丑(うし) 大引け
客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。
一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。
03:20 04:40 暁七ツ 寅(とら) 後朝
客と遊女との別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。
朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。
当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。
※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。
暁(あかつき)・明(あけ)・朝(あさ)・昼(ひる)・暮(くれ)・夜(よる)といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。
また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。

当時幕府によって定められた吉原の営業規則では、客は一昼夜以上とどまってはならないので、客は朝には帰らなければ成らなかったので、遊女は朝方になると客を見送らなければなりませんでした。

廓の年中行事

一月

■一日~七日※
正月・松の内・七草

元日・二日は仕着日(しきせび)といい、遊女屋から遊女に小袖が贈られます。遊女たちはそれを着て年礼に回りました。
この後午後になると茶屋に回ります。これを『道中初め』と言いました。
二日は仕舞日(しまいび)ともいい、基本的に