花魁になるまで

31 7月 2008
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 花魁には誰でもなれたわけではありません。子供の頃から廓内で姐さん方に従事し、きちんとした教育を受け、花魁としての「美貌」「教養」「芸事」「書」等がきちんと出来なければなれなかったのです。

 禿(かむろ)

 禿(かむろ)は少女時代から、花魁になる為の教育を受け、その中の数人だけが花魁として店に出る事を許されました。禿は7歳~8歳から姐さん方に付き、花魁の食事の給仕やたばこの吸いつけ、廓内の小間使いなどをしながら、三味線や唄、書などを習います。

 その中でも器量の良い子は、引っ込み禿となり、姐さん方の手を離れ廓主や内儀から新造になる為の英才教育を受けます。新造になる為の引っ込み禿の年は、大体13歳から14歳といわれます。将来上位の遊女になることを約束された禿だけが、引っ込み禿になることを許されたのです。

 新造(しんぞう)

 禿を経てその上の新造になります。新造には振袖新造、留袖新造、番頭新造の三つがあります。
振袖新造はまだまだ姐さんの見習いをする立場で、客を取る事はありません。
18歳になっても独り立ちが出来ず、姐さんの世話になりながら客を取る新造を留袖新造といいます。
番頭新造は大体30前後。身請けされないまま年季を過ぎた子達が再び廓内で働く為になること。
番頭新造は経験も豊かですから、花魁の身辺の用を勤めたり、茶屋に出向き初回の客の品定めをしたりと、花魁の引き立て役や相談役になってあげるのです。

 

 遣り手

元々は遊女で、30歳以上の者がなった。
遊女の値段を決めたり、酒宴の内容を決めたりと、見世の実質的なマネージャー役をこなす。
一人の遊女に付くのではなく、見世全体の遊女の切り盛りをしていた。遣り手婆の語源。

 

花魁とは

30 7月 2008
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 吉原遊郭の中で最高に位の高い遊女を、花魁と呼びました。

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最近ではあちらこちらで「花魁」の名前が挙がりますが、吉原遊郭以外の高級遊女を「花魁」と言うのは間違いであります。

 花魁にも様々な位があります。

●太夫:
高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいません。
高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられています。
宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。

●格子:
太夫に準ずる遊女でありますが、やはり宝暦頃に姿を消しました。

●散茶:
元々は太夫・格子より下位の遊女でありましたが、後に太夫・格子がいなくなった為高級遊女を指す言葉に。

●座敷持:
普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。

●呼出し:
散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
 

基本的に呼び出し以上を花魁と呼び、それ以下は花魁とは言いません。
万治元年(1658)の吉原細見によれば、太夫3人、格子67人、局365人、散茶669人、次女郎1004人である。また、安永4年(1775)の吉原 細見によれば、散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっています。

 花魁は傾城とも呼ばれた訳は、城が傾くほどの金が掛かるという意味。
一度の登楼で今の金額に直すと50万以上は掛かったと言われます。
全ての芸事に秀で、美貌も備えた花魁に会うには並大抵な事では無かったのです。
島原などが、発祥の地。
帯は心という字のように結びました。

京都の女歌舞伎からきたもので、舞に秀でたものを「舞太夫」、能に秀でたものを「能太夫」などと呼んだのが、語源の発祥と言われています。それに太夫は、公家や皇族の相手がほとんどでしたので、教養に長けたものではなくてはならなかったのです。

 花魁の語源も、禿達が「おいらの姐さん」と言ったのが訛っただとか、人を騙すに尾はいらんと言葉遊びから来たとか、様々な話がありますが真相は定かではありません。

 

先ほども記載しましたが、花魁は基本的には吉原の最高位の遊女。
のちに各地の岡場所での高位の遊女を、花魁と呼ぶようになりましたが、吉原の花魁とは別格の物です。