遊郭吉原

廓遊び

31 7月 2008
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 さて、遊女の格と見世の格が理解できたら、いよいよ遊郭での遊びを。
まず茶屋を通して、遊女を選びます。吉原細見などの、吉原のガイドブックには花魁の浮世絵やどの見世にはどの様な遊女がいるか書き記してあります。

 まず、高い位の遊女は、一回目から客と寝たりはしません。客を断る事も出来たのです。
その遊び方とは・・・

 

初会

 初めての客を初会の客といいます。
この初会には簡単な見立ての作法があり、これを引付の式といいます。
これを行う座敷を引付部屋とか引付座敷といい、大体表二階にありました。

 十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)の『青楼年中行事』には、

 「若者客をひいて座敷に請じ、盃を出し硯ぶたを運ぶうち、火鉢の火は漸くに起かゝり、燭台の蝋燭いまだ暗うして四隅に足らず。床の間の前に煙草盆堆(うずたか)くならべし中に、梨子地(なしじ)に 真鍮のかなもの光り、火入の透明までぎらぎらしきは全盛おしよくの調度にて、まだ見ぬさきにおのづから、其主を現はしたり。……やがて相方打連れて席上に すはると、若者盃を進むるに、取上げて見ぬようで見るあり。笑ふやうでわらはぬあり。唯何の気なしに受けるあり、横にすはりて客に向はず、相節の流し目に 其余情をおもわせ、傍輩(ほうばい)同士のはなしなどすると、高祥にして淫声清く、袖にて笑ひを覆ふなどは云々。」

 これで見ると、花魁との対座は、引付部屋ではなく、引付が終わったあと、花魁の部屋へ案内されてからと思われます。遊女屋の格により、また遊女の等級によっても、その状況は異なっていたようであります。

 以上は、だいたい高級な遊客の場合であり、一般には茶屋が案内して遊女屋に至り、張見世の遊女を自ら見立てて、茶屋者にその女を指示します。それから遣手(やりて)(遊女屋で諸事の取り持ち、また、遊女の監督や指導などをする女性)なり、遊女屋で働く若い者、また禿(かむろ)なりに案内されて、その遊女の部屋か、または名代部屋(廻し部屋)へと案内されます。茶屋の内儀などはこれに同席して、客と遊女の間を取り持ち、明朝の迎えの時間などを約束してから帰りました。これも茶屋の勤めの一つであったのです。

  ずつと上がると明部屋へ先づ入れる
  先づ最初煙草盆から天上し【階下の張見世部屋から二階へ運ぶ】
  最初まづ御覧に入れる煙草盆

ここで一服つけながら、遊女のご出座を待つのであるが
昼三(ちゅうさん)などの上妓(高級遊女)ほど客を長く待たせるのが一つの見識とされたようであります。

  客人は乙の座へつく面白さ【甲の座、つまり床柱を背にした上座には花魁が座る】

では、客はどのあたりに座るのがよいか、洒落本『傾城買指南所(けいせいかいしなんじょ)』には、

 「居所も上らぬやうに、下らぬやうに、すわり給へ。それを茶屋船宿のいる所に、居りなどして、そこにお居でなさる所じやござりませぬなどゝエラいわるるものだ。さてけいせひ出来り、床柱によりかゝる。是からまづ盞(さかずき)事だ。」とあります。

  初会には壁へすいつく程すわり
  まじいりまじいりといまいましい初会【客の人品骨柄をとくとごらんじる】
  初会の盃抹香ひねった手【遊女の気取った手つき、焼香でもするように見える】
  頂いて飲むと女郎は脇へ向き
  毒断のやうに初会は喰はぬなり
     【毒断とは、病気の時など身体に障りとなる飲食物を避けることをいう】
  十人が十人初会たべんせん【酒を飲むことを「たべる」という】

 これらはいずれも昼三などの上妓の初会で、当夜は肌を許さなかったといわれる。

  男女席を同ふせざるは初会【「男女七歳にして席を同じうせず」の文句を援用】

 しかし、中以下の遊女なら、

  初会の夜まず商売と年をあて
  初会から馬鹿らしいねとちく生め【「馬鹿らしいね」は遊女の通言】

 といったなれなれしいのもいた。もっとも、初会の客に対しても「床をつける」のは遊女の義務で、

  初会には器を借すとおもふ也
  始終来もしようか位いで初会させ〔これからもしょっちゅう来てくれるだろうと推量してのサービス〕
  翠帳紅閨(すいちょうこうけい)にけろりと初会の夜
  初会には道草を喰ふ上草履〔上草履(うわぞうり)は遊女の隠喩〕
  草も木も寝るにまだ来ぬ初会の夜
  待たせるだけ待たせておいて、とことんふられたのでは吉原へ来た甲斐(かい)もないと、
  投げられもしようかと初会片苦労〔投げられるは、ふられると同義〕

 

 二会(回)目は廓内用語で「裏」という。二会目に登楼することを「裏をかえす」という。
遊女から見ると、この二会目の客は「裏の客」。

  二会目はほれそふにしてよしにする
  裏の夜は四五寸近く来て座はり
  枇杷(びわ)一つ喰たが裏のしるし也
  もう裏は西瓜(すいか)くらいをちつと喰ひ

というわけで、初会からみれば、だいぶくつろいだ感じであるが
遊女が身も心も許すというところまではまだいかぬようであります。

 

三会目

 三会目の登楼は、はじめて馴染(なじ)みになる機会であるから、相方に気に入られるために、諸事気を配らねばならぬことが多い。特に廓内の特殊な慣習、つまり「廓の諸訳(しょわけ)」を知っておかなければならない。まず、花魁に床花(とこばな)というのを付けなければならない。

 三会目には遣手にも祝儀を出す。そしてこの三会目に、はじめて箸紙(はしがみ)というのができるのです。
これは馴染みとなった客専用のもので、客の紋なり、表徳(ひょうとく)(表徳号のこと。雅号・別名・あだ名をいう)なり、本名なりを記して、遊女の部屋の茶箪笥(ちゃだんす)に大切に保管されま

見世の格と遊女の格

31 7月 2008
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 遊郭には遊郭での遊び方がありました。見世にもよりますが、遊女と遊ぶのには引手茶屋を通さずには遊べません。引手茶屋で宴席の準備をさせ、茶屋男の案内で見世に登楼しなければなりませんでした。
解りやすく言うと、引手茶屋は案内所。案内所で段取りをして、見世に連絡。そして料理を注文という仕組み。

引手茶屋が全てを段取りし、料理などの中間マージンを搾取、見世は更にそれに上乗せするというシステムだ。

 見世のランクは以下の通り。

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惣(総)籬 半籬 惣(総)半籬
大見世 中見世 小見世
揚げ代2分 揚げ代2朱・2分 揚げ代1分以下
格子が見世(みせ)前から入口土間脇まである。揚代1分以下の遊女はいなかった。 茶屋を通さないとあがれない 土間脇の格子が上半分から四分の一ない。揚代2分以上の遊女が交じっていたので交見世(まじりみせ)とも呼ばれた。茶屋を通さないとあがれない。 格子のすべてが下半分しかない。揚代1分の遊女がいても一人のみ、ほとんどが揚代2朱。  フリーの客でも大丈夫。

 

ランク 元吉原初期 元吉原末期 新吉原初期 新吉原末期 以降
太夫 太夫 太夫 太夫
格子 格子 格子 格子 呼出
昼三
散茶 散茶 附廻
梅茶 座敷持
部屋持
切見世 切見世 切見世 切見世

 引手茶屋は、揚屋制度がなくなってから出来た制度。
揚屋の格式ばった制度を多少簡略化したシステムになった。

 

 散茶女郎が登場する寛文期に局女郎の揚代が20匁から15匁に値下がりする。散茶が15匁だったため対抗して同値にしたのである。これによって散茶の格が知られる。
散茶との競り合いに負けた局は、元禄期(1688-1703)に梅茶と切見世女郎へと格落ちしていく。中途半端な格となった端女郎は消滅。
時代が下るにつれ揚代は上昇し、寛保期(1741-1743)には昼夜で太夫銀84匁、格子60匁(元禄以降の公定は1両銀60匁)、散茶は金3分、金2分、1分の三等に分かれる。散茶の勢いは衰えしらずで、太夫は老舗玉屋山三郎の小紫と、同じく老舗三浦屋四郎左衛門の薄雲の二人のみ。格子女郎も19人となる。
宝暦期(1751-1763)になると老舗三浦屋四郎左衛門の遊女屋が宝暦5年に廃絶、一人となった玉屋の太夫花紫が宝暦10年に消え、揚屋制度も滅び る。散茶のみが勢いを増し明和期(1764-1771)に表のごとく揚代を上げ、三分化したそれぞれに名称が付くようになる。

※1両は4分、1分は4朱、4朱は1000文。以上は公定相場実際は4朱は1500文ほどだと思う。よって2朱は750文。

> 天明期(1781-1788)になると、この頃全盛だった扇屋宇右衛門が五明楼と名乗り、これを嚆矢に丁子屋が鶏舌楼、松葉屋が松葉楼と楼号を付けるのが流行り、遂に新吉原の遊女屋は屋号から楼号へと変わった。また遊女屋の主人を以前は「遊女が親父」(きみがてて)といっていたが、これもただ「爺」(おやじ)と呼ぶようになった。

 

 

廓内に従事する人々

31 7月 2008
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 廓内には様々な人々が生活し、従事しています。花魁を初めとする遊女達だけではないのです。
当然ながら男衆も居ます。基本的に廓内の男衆は裏方仕事。年を取っても「若い衆」といわれてました。
 

楼主
見世のオーナー

番頭
実際に見世を切り盛りしていた人。若衆に仕事の指示などをする。

妓夫(ぎゅう)
別名「牛太郎」とも言われた見世の客引き。見世の入り口の番台に座ってお客の呼び込みをした。
付き馬という集金係の様な事もする。

女衒(げせん)
今で言うところの、遊女のスカウトマン。

見世番
見世の中の雑用係。道中時には傘や提灯を持つ。

二階番
遊女の床は大体二階。二階での様々な雑用をする係。

不寝番
夜中の見張り役。火の用心や揉め事の仲裁なども勤める。

料理番
料理などを作る人。

二階廻し
夜な夜な各部屋を回り、行灯の油を足す係。

掛け廻し
ツケの集金等をする係。ツケが利いたのは、武士や常連客のみ。

中郎
見世の雑用係。見世前の掃除、一階の掃除などの雑用一般。

亡八(くつわ)
孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥の八つを忘れた無法者。
楼名主の事を表していたが、その後足抜け等の廓内を取り締まる人々の事も指した。

 孝=祖先によく仕える
 悌=年長者によく従う
 忠=無私の心
 信=誠実さ
 礼=敬意をつくす
 義=たてまえを重んじる
 廉=利益に心をひかれない
 恥=やましく思う

 

 

ちなみに、当時の日本は身分制度がありました。
いわゆる、「士農工商穢非人」

廓を出る事が出来た遊女は町人として生活を出来ましたが、吉原の若い衆などは、吉原を出た後も町人とはみなされる事がありませんでした。今の歌舞伎役者もこの穢非人の部類でしたし、川原乞食などと呼ばれていました。

 

 

遊郭としての吉原

30 7月 2008
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 江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説があります。
葦(あし)は悪しに通じるのを忌んで、吉と変えられたと言います。
いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭がありました。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりであります(二丁町遊郭)。

明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所でありました。
吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れてもらえず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意。
この際に吉原の営業できる土地は5割り増しにされ、夜の営業を許可されました。
以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼びます。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もあります。                 

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元吉原 新吉原

 吉原の周囲はお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6 m)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側の大門のみ。外界から隔絶されていました。

 遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれないない格式の総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列がありました。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるように。
遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもありました。武士は編み笠をかぶり顔を隠しての訪楼。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とあります(傾城とは城を傾けるような美女のことだが、ここでは遊女を指す)。

 時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていきました。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、金貸しである札差たちの豪遊が知られ、語り草にもなっています。吉原は女性を前借金で縛る人身売買の場所でありましたが、文化の発信地としての役割も持っていたのであります。

1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可されました。1842年には吉原以外の場所での売春は禁止されました。

文化の発祥地としての吉原

 

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 多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもありました。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かります。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となって行くのです。

 その最たる物に、プロマイドの代わりとしての浮世絵が在ります。
著名な浮世絵師はこぞって吉原の花魁の浮世絵を作りました。そこから、吉原細見などの今で言う吉原ガイド帳なるものも発行されていくのです。

 又、落語や長唄、小唄や浄瑠璃といった様々な文化にも影響を及ぼし、それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、人々に語り継がれていく事になるのです。
人々は非日常の世界を、そこに見出していったのでした。