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吉原芸者

5 8月 2008

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吉原に芸者が誕生したのは宝暦年間(1760年頃)。吉原に扇屋歌扇(おうぎやかせん)という踊子が芸者の発祥と言われています。これは芸者の検札を始めてもらった金春芸者がいた中央区が言っています。

元々吉原の遊女は芸事に秀でいた為、芸者は必要なかったのです。
しかしながら湯屋などとの合併などが在った1680年以降から、徐々に遊女のあり方が変わっていくのです。
元々いた局はいなくなり、散茶と言われる遊女が増え、1751年吉原最後の太夫玉屋花紫を最後に吉原から太夫は消滅してしまうのです。

当初の散茶は「散茶は振らぬ」と云われるぐらい、誰彼とも無く客と寝ました。その当時の太夫や格子と言われる遊女は、いくら通って金をつぎ込んでも、遊女が気に入らなければ寝ることは出来なかったので、値段も扱いも楽な散茶がもてはやされる様になっていくのです。散茶は湯女の出身が多かった為、お客を選ぶ事も無かったからです。

散茶はもともと湯女ですから、器量は良くとも芸事が出来ない。そこで、遊女でも器量の余り良くないが芸事が達者な子達が、芸者へと転向していくようになるのです。幇間、いわゆる男芸者も徐々に増えて行きます。

此処で問題が生じてきます。芸者と遊女の区別がはっきりとは無いからです。当時の芸者は生粋の芸者と言う訳でもなかったので、遊女とお客の取り合いになってしまいます。そこで考えられたのが、見世で芸者を抱える事を禁止し、見番を作るのです。

見番の誕生

1779年。女芸者の風儀を矯正しようと見番を設置。そこに名乗り出たのが、角町で遊郭をやっていた大黒屋。日本堤の堤防の修復や、遊郭外の総下水の浚い、水道尻の火の見番人の給金の支払い、柵板の修繕、臨時の給付金(町奉行などの饗応費用)などを負担する事を条件に、芸者の一手取締りを許されました。

見番所には「男女芸者取締所」と大書した大札が掲げてありました。帳場に二人の番頭、十数人の手代が事務をとり、芸者の遊女屋抱え、茶屋抱え、素人抱え、自分抱 えの区別なく芸者の名を記した札を掲示し、客から口がかかると札を裏返し、帳面に遊女屋名と買い上げた札数を記しました。
芸者の数を人ではなく、札と称えたの は見番札からきたものといいます。女芸者は吉原遊郭内に住み、外出は7、8日前からその旨を見番へ伝えておかないと許されませんでした。

吉原見番のあった場所は、現在の吉原の町会事務所辺りです。

文化期(1804-1817)女芸者163人 男芸者40人
文政期(1818-1829)女芸者172人 男芸者28人
天保期(1830-1843)女芸者  6人 男芸者28人
安政期(1854-1859)女芸者245人 男芸者25人
慶応4年(1868)    女芸者341人 男芸者38人

吉原芸者の変貌

吉原芸者は白襟無地の紋付の小袖に、縫いの無い織物の帯を締めることを義務付けられてきましたが、遊女の前帯と区別するために、一つ結びという前帯をぐるりと後ろへ回して裾近くまで垂らした形としました。
縮緬の白の蹴出しを巻いて素足とし、頭も島田髷に平打の笄一本、櫛一本、簪一本という質素な格好でしたが、幕府より唯一公認された芸者が吉原芸者だけであり町の芸者からは羨望の眼差しでみられました。

その後遊郭や茶屋も消えてゆき、第2次世界大戦などの混乱を乗り切りましたが、昭和33年の売春防止法により吉原の遊郭の歴史は幕を閉じます。

その後勇逸残った茶屋は金村さんと松葉屋さん。
松葉屋さんは自助努力でハトバスを呼び込んだりと、浅草の観光名所の一つとなりました。
外国の大使なども訪れて、吉原に伝わる花魁道中等のショーを楽しんだのです。

戦争で大部分の芸者衆はいなくなります。そして売春防止法により遊郭が消滅した事でお出先が無くなった芸者衆を観光ショーを始めた松葉屋が引き取る形になります。松葉屋さんに引き取られた吉原芸者は悲惨なものでした。どちらかというとメインは花魁でしたので、芸者は引き立て役。
お運びさんもしながら芸の道を貫いていきます。

現存している吉原芸者は3名のみ。御年88歳のみな子姐さん、そして二三松姐さん、みよ松姐さん。
現役で芸者を続けているのはみな子姐さんのみ。他の2名は浅草の土地を離れました。

格も芸の質も数段違う吉原芸者。しかしながら、お出先がない事と、後継者がいない事でその芸は今、継承を危ぶまれているのです。

吉原七不思議

5 8月 2008

yoshiwara03.jpg吉原七不思議とは、本所七不思議や八丁堀七不思議の様な歓談じみたものではなく、吉原での出来事や慣習を皮肉った、駄洒落のようなものです。下記に上げる他にも様々な謂れがありますが、代表的な七不思議を掲載しておきます。

新造にも婆あり

吉原の新造には、「振袖新造」という遊女見習いのような少女と、それが昇格した「留袖新造」(このうち稼ぎのいい遊女が『花魁』と呼ばれます)、引退後マネージャーのような役割を果たす「番頭新造」がいます。
読んで字のごとく「新しい」新造の名を持っていても、大年増である番頭新造もいる、ということです。三十過ぎの女性ですがすでに婆呼ばわりされてしまいます。

大門あれど、玄関なし

本来玄関というのはある程度の格式がなければその名前では呼ばれません。
単に家の出入り口である場合には「上がり口」というのが正しかったようです。
門があるほどの格式であれば当然「玄関」になるはずですが、そんな立派な屋敷は廓内にはありません。

遣り手といえども取るばかり

遊廓の因業代表格である「遣り手婆」。「遣る」という字をその名前に持っているくせに、客や遊女からふんだくることばかり考えているとからかわれています。

河岸あれど舟つかず

この河岸はお歯黒どぶ周辺の低級な遊女屋、「河岸見世」のことです。「河岸」ではあっても舟などつくはずもありません。

角町あれど、角にはあらず

「かど」ではなく「すみ」です。
確かに角ではなく吉原の真ん中あたりにある町です。

茶屋あれど、茶は売らず

単なる茶屋違い。直接遊女屋にあがらず茶屋(引手茶屋)に行ってから遊女屋に行くのはお金持ちだけです。
お茶を売るのは「水茶屋」。

若い衆にも禿あり

禿というのは遊女の身の回りの手伝いをする少女たちですが、江戸中期頃までは器量のいい男の子が禿となることもありました。
この男の子はたいていが将来は廓のさまざまな役割を担う「若い衆」になりました。

吉原の言葉

4 8月 2008

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吉原というのはある意味特別な場所。周りを鉄漿どぶに囲まれ、独自の文化や風習が在る浮世離れした場所であった為か、独自の言葉と言うのものが出来ました。
代表的なものに、高級遊女の使う「ありんす言葉」。

吉原には、各地方出身の女性が流入していたため、当然のことながら、各地のお国言葉が使われていたが、それらが混在しては艶消し(色気がないこと)であるというので、やがて優艶な吉原言葉に統一する必要に。
かくて生まれたのが、廓言葉ともいわれる「ありんす言葉」であります。「ありんす」とは吉原の廓言葉の代表で、「あります」を意味します。

各遊女屋によって廓言葉が違っていたり、それをその遊女屋の特色にしていたことは、洒落本(しゃれぼん)等に書いてありますが、オス・ザンス・ナンシ・ザマス言葉など、岡場所(官許の吉原以外の品川・新宿・深川などの遊里)には見られぬ廓言葉が多かったのです。

安永~天明(1772~89)頃から、当時の外国の知識を応用し、吉原を外国に見立てて、ありんす国などと呼ぶことが行われ、川柳にも、

日本を越すとアリンス国へ出る
日本からアリンス国は遠からず【日本は日本堤のこと】
などと詠まれています。

ありんす言葉の例としては


「大かた、内にはおかみさんがござんせうね」
きっと、家には奥さんがいるんでしょうね。


「生まれつきでおすものを」
生まれつきなんだから(しょうがないでしょ)


「後生だから、ちっとものを言わずにいておくんなんし」
お願いだから、少し黙っててくんない


「わつちやァいや」
え~、私ヤダぁ~


「もちっとゐなんせ、まだはやうおざんす」
もうちょっと居てよ、まだ早いわよ


「すかん」
嫌い


「モシヘわつちやたつた一つねがいがござんすよ」
あのね、私一つなんだけどお願いがあるの


「ほんにかへ」
本当?


「嘘をおつきなんし、よくはぐらかしなんすヨ」
もう、嘘ばっか言わないでよ、ごまかしてばっかりなんだから


「あい、お出でなんし、おあがりなんし」
はい、いらっしゃいませ、上がっていって下さい


他にも吉原から生まれた言葉としては、野暮・冷やかし・お茶をひく等今でも常用する言葉がある。

そうだということを そうざます
イヤなことを 好かねえ
やきもちやきを 甚介
男女の交合を 床に入る
月経(生理)を 行水
耳盥を 半蔵
武士のことを やまさん
坊主を げんさん
田舎の人を 旅人衆
商家の番頭を 店者(たなもの)
惚れた男を いい人
茶屋の男の奉公人を 消し炭
買ってくることを とってきな
文使いを 便り屋どん
男女が楽しむのを おしげりなんし
腹の立つを じれったい
つまみ食いを げびぞう
女衒(ぜげん)を 判方
暇であることを あがり

廓の一日

4 8月 2008

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 江戸の時代ですから、決まった時刻というのはなく、日の出や日の入りによって昔の時刻は変わっていました。そんな時代の廓での一日や年中行事を見てみましょう。

 

 廓の一日

廓の動き
05:00 07:00 明六ツ 卯(う) 大門を開ける
昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。
朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。
中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。
上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。
07:20 08:40 朝五ツ 辰(たつ) 仕事の始まり
針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。
09:40 10:20 朝四ツ 巳(み) 遊女の起床時間
物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。
座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。
12:00 12:00 昼九ツ 午(うま) 昼見世始まる
昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます
14:20 13:40 昼八ツ 未(ひつじ) 昼見世
昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします
16:40 15:20 昼七ツ 申(さる) 昼見世終わる
この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。
19:00 17:00 暮六ツ 酉(とり) 夜見世始まる
夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。
見世清掻き(みせすががき・単に清掻きとも)という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。
20:40 19:20 夜五ツ 戌(いぬ) 床に付く
賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます
22:20 21:40 夜四ツ 亥(い) 大門を閉じる
鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。
四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。
24:00 24:00 暁九ツ 子(ね) 引け四ツ
正しい四ツ(鐘四ツ)に対してこちらを引け四ツといいます。
各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。
金棒をならしながら火の番が回ります。
01:40 02:20 暁八ツ 丑(うし) 大引け
客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。
一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。
03:20 04:40 暁七ツ 寅(とら) 後朝
客と遊女との別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。
朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。
当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。
※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。
暁(あかつき)・明(あけ)・朝(あさ)・昼(ひる)・暮(くれ)・夜(よる)といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。
また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。

 当時幕府によって定められた吉原の営業規則では、客は一昼夜以上とどまってはならないので、客は朝には帰らなければ成らなかったので、遊女は朝方になると客を見送らなければなりませんでした。

 

 廓の年中行事

一月

■一日~七日※
正月・松の内・七草

元日・二日は仕着日(しきせび)といい、遊女屋から遊女に小袖が贈られます。遊女たちはそれを着て年礼に回りました。
この後午後になると茶屋に回ります。これを『道中初め』と言いました。
二日は仕舞日(しまいび)ともいい、基本的に