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	<title>吉原雀</title>
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	<description>お江戸吉原にまつわる伝統と文化を後世に伝える</description>
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		<title>吉原芸者</title>
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		<pubDate>Tue, 05 Aug 2008 04:58:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[吉原芸者]]></category>
		<category><![CDATA[芸者]]></category>

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		<description><![CDATA[吉原に芸者が誕生したのは宝暦年間（１７６０年頃）。吉原に扇屋歌扇（おうぎやかせん）という踊子が芸者の発祥と言われています。これは芸者の検札を始めてもらった金春芸者がいた中央区が言っています。 元々吉原の遊女は芸事に秀でい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img src="http://www.yosiwara.net/images/yoshiwara04.jpg" alt="yoshiwara04.jpg" width="550" height="300" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span></p>
<p>吉原に芸者が誕生したのは宝暦年間（１７６０年頃）。吉原に扇屋歌扇（おうぎやかせん）という踊子が芸者の発祥と言われています。これは芸者の検札を始めてもらった金春芸者がいた中央区が言っています。</p>
<p>元々吉原の遊女は芸事に秀でいた為、芸者は必要なかったのです。<br />
しかしながら湯屋などとの合併などが在った１６８０年以降から、徐々に遊女のあり方が変わっていくのです。<br />
元々いた局はいなくなり、散茶と言われる遊女が増え、１７５１年吉原最後の太夫玉屋花紫を最後に吉原から太夫は消滅してしまうのです。</p>
<p>当初の散茶は「散茶は振らぬ」と云われるぐらい、誰彼とも無く客と寝ました。その当時の太夫や格子と言われる遊女は、いくら通って金をつぎ込んでも、遊女が気に入らなければ寝ることは出来なかったので、値段も扱いも楽な散茶がもてはやされる様になっていくのです。散茶は湯女の出身が多かった為、お客を選ぶ事も無かったからです。</p>
<p>散茶はもともと湯女ですから、器量は良くとも芸事が出来ない。そこで、遊女でも器量の余り良くないが芸事が達者な子達が、芸者へと転向していくようになるのです。幇間、いわゆる男芸者も徐々に増えて行きます。</p>
<p>此処で問題が生じてきます。芸者と遊女の区別がはっきりとは無いからです。当時の芸者は生粋の芸者と言う訳でもなかったので、遊女とお客の取り合いになってしまいます。そこで考えられたのが、見世で芸者を抱える事を禁止し、見番を作るのです。</p>
<h2>見番の誕生</h2>
<p>１７７９年。女芸者の風儀を矯正しようと見番を設置。そこに名乗り出たのが、角町で遊郭をやっていた大黒屋。日本堤の堤防の修復や、遊郭外の総下水の浚い、水道尻の火の見番人の給金の支払い、柵板の修繕、臨時の給付金（町奉行などの饗応費用）などを負担する事を条件に、芸者の一手取締りを許されました。</p>
<p><span style="color: #000040;"><span style="font-size: x-small;"><span style="color: #000040;"><span style="color: #400000;"><span style="color: #000040;">見番所には「男女芸者取締所」と大書した大札が掲げてありました。帳場に二人の番頭、十数人の手代が事務をとり、芸者の遊女屋抱え、茶屋抱え、素人抱え、自分抱 えの区別なく芸者の名を記した札を掲示し、客から口がかかると札を裏返し、帳面に遊女屋名と買い上げた札数を記しました。<br />
芸者の数を人ではなく、札と称えたの は見番札からきたものといいます。女芸者は吉原遊郭内に住み、外出は７、８日前からその旨を見番へ伝えておかないと許されませんでした。</span></span></span></span></span></p>
<p><span style="color: #000040;"><span style="font-size: x-small;"><span style="color: #000040;"><span style="color: #400000;"><span style="color: #000040;">吉原見番のあった場所は、現在の吉原の町会事務所辺りです。</span></span></span></span></span></p>
<p><span style="color: #000040;"><span style="font-size: x-small;"><span style="color: #000040;"><span style="color: #400000;"><span style="color: #000040;"><span style="color: #400000;">文化期（1804-1817）女芸者１６３人　男芸者４０人<br />
文政期（1818-1829）女芸者１７２人　男芸者２８人<br />
天保期（1830-1843）女芸者　　６人　男芸者２８人<br />
安政期（1854-1859）女芸者２４５人　男芸者２５人<br />
慶応４年（1868）　         　女芸者３４１人　男芸者３８人</span></span></span></span></span></span></p>
<h2>吉原芸者の変貌</h2>
<p>吉原芸者は白襟無地の紋付の小袖に、縫いの無い織物の帯を締めることを義務付けられてきましたが、遊女の前帯と区別するために、一つ結びという前帯をぐるりと後ろへ回して裾近くまで垂らした形としました。<br />
縮緬の白の蹴出しを巻いて素足とし、頭も島田髷に平打の笄一本、櫛一本、簪一本という質素な格好でしたが、幕府より唯一公認された芸者が吉原芸者だけであり町の芸者からは羨望の眼差しでみられました。</p>
<p>その後遊郭や茶屋も消えてゆき、第２次世界大戦などの混乱を乗り切りましたが、昭和３３年の売春防止法により吉原の遊郭の歴史は幕を閉じます。</p>
<p>その後勇逸残った茶屋は金村さんと松葉屋さん。<br />
松葉屋さんは自助努力でハトバスを呼び込んだりと、浅草の観光名所の一つとなりました。<br />
外国の大使なども訪れて、吉原に伝わる花魁道中等のショーを楽しんだのです。</p>
<p>戦争で大部分の芸者衆はいなくなります。そして売春防止法により遊郭が消滅した事でお出先が無くなった芸者衆を観光ショーを始めた松葉屋が引き取る形になります。松葉屋さんに引き取られた吉原芸者は悲惨なものでした。どちらかというとメインは花魁でしたので、芸者は引き立て役。<br />
お運びさんもしながら芸の道を貫いていきます。</p>
<p>現存している吉原芸者は３名のみ。御年８８歳のみな子姐さん、そして二三松姐さん、みよ松姐さん。<br />
現役で芸者を続けているのはみな子姐さんのみ。他の２名は浅草の土地を離れました。</p>
<p>格も芸の質も数段違う吉原芸者。しかしながら、お出先がない事と、後継者がいない事でその芸は今、継承を危ぶまれているのです。</p>
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		<title>吉原七不思議</title>
		<link>http://yosiwara.net/life/6</link>
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		<pubDate>Tue, 05 Aug 2008 02:28:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[廓の生活・言葉]]></category>
		<category><![CDATA[七不思議]]></category>

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		<description><![CDATA[吉原七不思議とは、本所七不思議や八丁堀七不思議の様な歓談じみたものではなく、吉原での出来事や慣習を皮肉った、駄洒落のようなものです。下記に上げる他にも様々な謂れがありますが、代表的な七不思議を掲載しておきます。 新造にも [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img src="http://www.yosiwara.net/images/yoshiwara03.jpg" alt="yoshiwara03.jpg" width="550" height="300" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span>吉原七不思議とは、本所七不思議や八丁堀七不思議の様な歓談じみたものではなく、吉原での出来事や慣習を皮肉った、駄洒落のようなものです。下記に上げる他にも様々な謂れがありますが、代表的な七不思議を掲載しておきます。</span></p>
<dl>
<h4>新造にも婆あり</h4>
<dd> 吉原の新造には、「振袖新造」という遊女見習いのような少女と、それが昇格した「留袖新造」（このうち稼ぎのいい遊女が『花魁』と呼ばれます）、引退後マネージャーのような役割を果たす「番頭新造」がいます。<br />
読んで字のごとく「新しい」新造の名を持っていても、大年増である番頭新造もいる、ということです。三十過ぎの女性ですがすでに婆呼ばわりされてしまいます。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>大門あれど、玄関なし</h4>
<dd> 本来玄関というのはある程度の格式がなければその名前では呼ばれません。<br />
単に家の出入り口である場合には「上がり口」というのが正しかったようです。<br />
門があるほどの格式であれば当然「玄関」になるはずですが、そんな立派な屋敷は廓内にはありません。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>遣り手といえども取るばかり</h4>
<dd> 遊廓の因業代表格である「遣り手婆」。「遣る」という字をその名前に持っているくせに、客や遊女からふんだくることばかり考えているとからかわれています。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>河岸あれど舟つかず</h4>
<dd> この河岸はお歯黒どぶ周辺の低級な遊女屋、「河岸見世」のことです。「河岸」ではあっても舟などつくはずもありません。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>角町あれど、角にはあらず</h4>
<dd> 「かど」ではなく「すみ」です。<br />
確かに角ではなく吉原の真ん中あたりにある町です。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>茶屋あれど、茶は売らず</h4>
<dd> 単なる茶屋違い。直接遊女屋にあがらず茶屋（引手茶屋）に行ってから遊女屋に行くのはお金持ちだけです。<br />
お茶を売るのは「水茶屋」。 </dd>
<dt> </dt>
<h4>若い衆にも禿あり</h4>
<dd> 禿というのは遊女の身の回りの手伝いをする少女たちですが、江戸中期頃までは器量のいい男の子が禿となることもありました。<br />
この男の子はたいていが将来は廓のさまざまな役割を担う「若い衆」になりました。</dd>
</dl>
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		<item>
		<title>吉原の言葉</title>
		<link>http://yosiwara.net/life/7</link>
		<comments>http://yosiwara.net/life/7#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 04 Aug 2008 06:48:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[廓の生活・言葉]]></category>
		<category><![CDATA[言葉]]></category>

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		<description><![CDATA[吉原というのはある意味特別な場所。周りを鉄漿どぶに囲まれ、独自の文化や風習が在る浮世離れした場所であった為か、独自の言葉と言うのものが出来ました。 代表的なものに、高級遊女の使う「ありんす言葉」。 吉原には、各地方出身の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img src="http://www.yosiwara.net/images/yuujyo.jpg" alt="yuujyo.jpg" width="550" height="300" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span></p>
<p>吉原というのはある意味特別な場所。周りを鉄漿どぶに囲まれ、独自の文化や風習が在る浮世離れした場所であった為か、独自の言葉と言うのものが出来ました。<br />
代表的なものに、高級遊女の使う「ありんす言葉」。</p>
<p>吉原には、各地方出身の女性が流入していたため、当然のことながら、各地のお国言葉が使われていたが、それらが混在しては艶消し（色気がないこと）であるというので、やがて優艶な吉原言葉に統一する必要に。<br />
かくて生まれたのが、廓言葉ともいわれる「ありんす言葉」であります。「ありんす」とは吉原の廓言葉の代表で、「あります」を意味します。</p>
<p>各遊女屋によって廓言葉が違っていたり、それをその遊女屋の特色にしていたことは、洒落本(しゃれぼん)等に書いてありますが、オス・ザンス・ナンシ・ザマス言葉など、岡場所（官許の吉原以外の品川・新宿・深川などの遊里）には見られぬ廓言葉が多かったのです。</p>
<p>安永～天明（1772～89）頃から、当時の外国の知識を応用し、吉原を外国に見立てて、ありんす国などと呼ぶことが行われ、川柳にも、</p>
<p>日本を越すとアリンス国へ出る<br />
日本からアリンス国は遠からず【日本は日本堤のこと】<br />
などと詠まれています。</p>
<p>ありんす言葉の例としては</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「大かた、内にはおかみさんがござんせうね」</span></strong><br />
きっと、家には奥さんがいるんでしょうね。</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「生まれつきでおすものを」<br />
</span></strong>生まれつきなんだから（しょうがないでしょ）</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「後生だから、ちっとものを言わずにいておくんなんし」</span></strong><br />
お願いだから、少し黙っててくんない</p>
<hr /><span style="font-size: large;"><strong>「わつちやァいや」<br />
</strong></span>え～、私ヤダぁ～</p>
<hr /><span style="font-size: large;"><strong>「もちっとゐなんせ、まだはやうおざんす」<br />
</strong></span>もうちょっと居てよ、まだ早いわよ</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「すかん」<br />
</span></strong>嫌い</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「モシヘわつちやたつた一つねがいがござんすよ」<br />
</span></strong>あのね、私一つなんだけどお願いがあるの</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「ほんにかへ」</span></strong><br />
本当？</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「嘘をおつきなんし、よくはぐらかしなんすﾖ」</span></strong><br />
もう、嘘ばっか言わないでよ、ごまかしてばっかりなんだから</p>
<hr /><strong><span style="font-size: large;">「あい、お出でなんし、おあがりなんし」<br />
</span></strong>はい、いらっしゃいませ、上がっていって下さい</p>
<hr />他にも吉原から生まれた言葉としては、野暮・冷やかし・お茶をひく等今でも常用する言葉がある。</p>
<table border="0" cellspacing="1" cellpadding="1" width="200">
<tbody>
<tr>
<td>そうだということを</td>
<td>そうざます</td>
</tr>
<tr>
<td>イヤなことを</td>
<td>好かねえ</td>
</tr>
<tr>
<td>やきもちやきを</td>
<td>甚介</td>
</tr>
<tr>
<td>男女の交合を</td>
<td>床に入る</td>
</tr>
<tr>
<td>月経（生理）を</td>
<td>行水</td>
</tr>
<tr>
<td>耳盥を</td>
<td>半蔵</td>
</tr>
<tr>
<td>武士のことを</td>
<td>やまさん</td>
</tr>
<tr>
<td>坊主を</td>
<td>げんさん</td>
</tr>
<tr>
<td>田舎の人を</td>
<td>旅人衆</td>
</tr>
<tr>
<td>商家の番頭を</td>
<td>店者（たなもの）</td>
</tr>
<tr>
<td>惚れた男を</td>
<td>いい人</td>
</tr>
<tr>
<td>茶屋の男の奉公人を</td>
<td>消し炭</td>
</tr>
<tr>
<td>買ってくることを</td>
<td>とってきな</td>
</tr>
<tr>
<td>文使いを</td>
<td>便り屋どん</td>
</tr>
<tr>
<td>男女が楽しむのを</td>
<td>おしげりなんし</td>
</tr>
<tr>
<td>腹の立つを</td>
<td>じれったい</td>
</tr>
<tr>
<td>つまみ食いを</td>
<td>げびぞう</td>
</tr>
<tr>
<td>女衒（ぜげん）を</td>
<td>判方</td>
</tr>
<tr>
<td>暇であることを</td>
<td>あがり</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>廓の一日</title>
		<link>http://yosiwara.net/life/8</link>
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		<pubDate>Mon, 04 Aug 2008 04:09:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[廓の生活・言葉]]></category>
		<category><![CDATA[一日　年中行事]]></category>

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		<description><![CDATA[江戸の時代ですから、決まった時刻というのはなく、日の出や日の入りによって昔の時刻は変わっていました。そんな時代の廓での一日や年中行事を見てみましょう。 廓の一日 夏 冬 時 廓の動き 05:00 07:00 明六ツ 卯（ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img src="http://www.yosiwara.net/images/yoshiwara01.jpg" alt="yoshiwara01.jpg" width="550" height="300" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span></p>
<p>江戸の時代ですから、決まった時刻というのはなく、日の出や日の入りによって昔の時刻は変わっていました。そんな時代の廓での一日や年中行事を見てみましょう。</p>
<h4><strong> 廓の一日</strong></h4>
<table border="1">
<tbody>
<tr class="asa">
<td class="natu">夏</td>
<td class="fuyu">冬</td>
<td colspan="2" align="center">時</td>
<td width="70%" align="center">廓の動き</td>
</tr>
<tr class="asa">
<td class="natu" width="5%">05:00</td>
<td class="fuyu" width="5%">07:00</td>
<td width="10%" align="center">明六ツ</td>
<td width="10%" align="center">卯（う）</td>
<td><strong>大門を開ける</strong><br />
昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。<br />
朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。<br />
中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。<br />
上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。</td>
</tr>
<tr class="asa">
<td class="natu">07:20</td>
<td class="fuyu">08:40</td>
<td align="center">朝五ツ</td>
<td align="center">辰（たつ）</td>
<td><strong>仕事の始まり</strong><br />
針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。</td>
</tr>
<tr class="asa">
<td class="natu">09:40</td>
<td class="fuyu">10:20</td>
<td align="center">朝四ツ</td>
<td align="center">巳（み）</td>
<td><strong>遊女の起床時間</strong><br />
物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。<br />
座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。</td>
</tr>
<tr class="hiru">
<td class="natu">12:00</td>
<td class="fuyu">12:00</td>
<td align="center">昼九ツ</td>
<td align="center">午（うま）</td>
<td><strong>昼見世始まる</strong><br />
昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます</td>
</tr>
<tr class="hiru">
<td class="natu">14:20</td>
<td class="fuyu">13:40</td>
<td align="center">昼八ツ</td>
<td align="center">未（ひつじ）</td>
<td><strong>昼見世</strong><br />
昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします</td>
</tr>
<tr class="hiru">
<td class="natu">16:40</td>
<td class="fuyu">15:20</td>
<td align="center">昼七ツ</td>
<td align="center">申（さる）</td>
<td><strong>昼見世終わる</strong><br />
この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。</td>
</tr>
<tr class="yoru">
<td class="natu">19:00</td>
<td class="fuyu">17:00</td>
<td align="center">暮六ツ</td>
<td align="center">酉（とり）</td>
<td><strong>夜見世始まる</strong><br />
夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。<br />
見世清掻き（みせすががき・単に清掻きとも）という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。</td>
</tr>
<tr class="yoru">
<td class="natu">20:40</td>
<td class="fuyu">19:20</td>
<td align="center">夜五ツ</td>
<td align="center">戌（いぬ）</td>
<td><strong>床に付く</strong><br />
賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます</td>
</tr>
<tr class="yoru">
<td class="natu">22:20</td>
<td class="fuyu">21:40</td>
<td align="center">夜四ツ</td>
<td align="center">亥（い）</td>
<td><strong>大門を閉じる</strong><br />
鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。<br />
四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。</td>
</tr>
<tr class="sinya">
<td class="natu">24:00</td>
<td class="fuyu">24:00</td>
<td align="center">暁九ツ</td>
<td align="center">子（ね）</td>
<td><strong>引け四ツ</strong><br />
正しい四ツ（鐘四ツ）に対してこちらを引け四ツといいます。<br />
各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。<br />
金棒をならしながら火の番が回ります。</td>
</tr>
<tr class="sinya">
<td class="natu">01:40</td>
<td class="fuyu">02:20</td>
<td align="center">暁八ツ</td>
<td align="center">丑（うし）</td>
<td><strong>大引け</strong><br />
客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。<br />
一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。</td>
</tr>
<tr class="sinya">
<td class="natu">03:20</td>
<td class="fuyu">04:40</td>
<td align="center">暁七ツ</td>
<td align="center">寅（とら）</td>
<td><strong>後朝</strong><br />
客と遊女との別れを後朝（きぬぎぬ）といいます。<br />
朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。<br />
当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5" align="left">※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。<br />
暁（あかつき）・明（あけ）・朝（あさ）・昼（ひる）・暮（くれ）・夜（よる）といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。<br />
また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>当時幕府によって定められた吉原の営業規則では、客は一昼夜以上とどまってはならないので、客は朝には帰らなければ成らなかったので、遊女は朝方になると客を見送らなければなりませんでした。</p>
<p><strong> 廓の年中行事</strong></p>
<div class="haru1">
<h3><a name="#1"><span style="color: #0000ff;">一月</span></a></h3>
<div class="day"><strong>■一日～七日※</strong></div>
<div class="bun">
<div class="daimon">正月・松の内・七草</div>
<p>元日・二日は仕着日（しきせび）といい、遊女屋から遊女に小袖が贈られます。遊女たちはそれを着て年礼に回りました。<br />
この後午後になると茶屋に回ります。これを『道中初め』と言いました。<br />
二日は仕舞日（しまいび）ともいい、基本的に</p>
</div>
</div>
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	</item>
		<item>
		<title>廓遊び</title>
		<link>http://yosiwara.net/yukaku/9</link>
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		<pubDate>Thu, 31 Jul 2008 06:28:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[遊郭吉原]]></category>
		<category><![CDATA[遊び方]]></category>

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		<description><![CDATA[　さて、遊女の格と見世の格が理解できたら、いよいよ遊郭での遊びを。まず茶屋を通して、遊女を選びます。吉原細見などの、吉原のガイドブックには花魁の浮世絵やどの見世にはどの様な遊女がいるか書き記してあります。 　まず、高い位 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img width="550" height="300" alt="oiran02.jpg" src="http://www.yosiwara.net/images/oiran02.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span>
<p>　さて、遊女の格と見世の格が理解できたら、いよいよ遊郭での遊びを。<br />まず茶屋を通して、遊女を選びます。吉原細見などの、吉原のガイドブックには花魁の浮世絵やどの見世にはどの様な遊女がいるか書き記してあります。</p>
<p>　まず、高い位の遊女は、一回目から客と寝たりはしません。客を断る事も出来たのです。<br />その遊び方とは・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3>初会</h3>
<p>　初めての客を初会の客といいます。<br />この初会には簡単な見立ての作法があり、これを引付の式といいます。<br />これを行う座敷を引付部屋とか引付座敷といい、大体表二階にありました。</p>
<p>　十返舎一九<font size="2">(じゅっぺんしゃいっく)</font>の『青楼年中行事』には、<br /> <img width="1" height="10" alt="" src="http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/gif/tran.gif" /><br /> 　「若者客をひいて座敷に請じ、盃を出し硯ぶたを運ぶうち、火鉢の火は漸くに起かゝり、燭台の蝋燭いまだ暗うして四隅に足らず。床の間の前に煙草盆堆<font size="2">(うずたか)</font>くならべし中に、梨子地<font size="2">(なしじ)</font>に 真鍮のかなもの光り、火入の透明までぎらぎらしきは全盛おしよくの調度にて、まだ見ぬさきにおのづから、其主を現はしたり。&hellip;&hellip;やがて相方打連れて席上に すはると、若者盃を進むるに、取上げて見ぬようで見るあり。笑ふやうでわらはぬあり。唯何の気なしに受けるあり、横にすはりて客に向はず、相節の流し目に 其余情をおもわせ、傍輩<font size="2">(ほうばい)</font>同士のはなしなどすると、高祥にして淫声清く、袖にて笑ひを覆ふなどは云々。」<br />  <img width="1" height="10" alt="" src="http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/gif/tran.gif" /><br /> 　これで見ると、花魁との対座は、引付部屋ではなく、引付が終わったあと、花魁の部屋へ案内されてからと思われます。遊女屋の格により、また遊女の等級によっても、その状況は異なっていたようであります。</p>
<p>　以上は、だいたい高級な遊客の場合であり、一般には茶屋が案内して遊女屋に至り、張見世の遊女を自ら見立てて、茶屋者にその女を指示します。それから遣手<font size="2">(やりて)</font>（遊女屋で諸事の取り持ち、また、遊女の監督や指導などをする女性）なり、遊女屋で働く若い者、また禿<font size="2">(かむろ)</font>なりに案内されて、その遊女の部屋か、または名代部屋（廻し部屋）へと案内されます。茶屋の内儀などはこれに同席して、客と遊女の間を取り持ち、明朝の迎えの時間などを約束してから帰りました。これも茶屋の勤めの一つであったのです。</p>
<p>　　ずつと上がると明部屋へ先づ入れる<br /> 　　先づ最初煙草盆から天上し【階下の張見世部屋から二階へ運ぶ】<br /> 　　最初まづ御覧に入れる煙草盆</p>
<p>  ここで一服つけながら、遊女のご出座を待つのであるが<br />昼三<font size="2">(ちゅうさん)</font>などの上妓（高級遊女）ほど客を長く待たせるのが一つの見識とされたようであります。</p>
<p>　　客人は乙の座へつく面白さ【甲の座、つまり床柱を背にした上座には花魁が座る】</p>
<p>では、客はどのあたりに座るのがよいか、洒落本『傾城買指南所<font size="2">(けいせいかいしなんじょ)</font>』には、</p>
<p>　「居所も上らぬやうに、下らぬやうに、すわり給へ。それを茶屋船宿のいる所に、居りなどして、そこにお居でなさる所じやござりませぬなどゝエラいわるるものだ。さてけいせひ出来り、床柱によりかゝる。是からまづ盞<font size="2">(さかずき)</font>事だ。」とあります。</p>
<p> 　　初会には壁へすいつく程すわり<br /> 　　まじいりまじいりといまいましい初会【客の人品骨柄をとくとごらんじる】<br /> 　　初会の盃抹香ひねった手【遊女の気取った手つき、焼香でもするように見える】<br /> 　　頂いて飲むと女郎は脇へ向き<br /> 　　毒断のやうに初会は喰はぬなり<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 【毒断とは、病気の時など身体に障りとなる飲食物を避けることをいう】<br /> 　　十人が十人初会たべんせん【酒を飲むことを「たべる」という】</p>
<p>　これらはいずれも昼三などの上妓の初会で、当夜は肌を許さなかったといわれる。</p>
<p>　　男女席を同ふせざるは初会【「男女七歳にして席を同じうせず」の文句を援用】</p>
<p>  　しかし、中以下の遊女なら、</p>
<p>　　初会の夜まず商売と年をあて<br /> 　　初会から馬鹿らしいねとちく生め【「馬鹿らしいね」は遊女の通言】</p>
<p>　といったなれなれしいのもいた。もっとも、初会の客に対しても「床をつける」のは遊女の義務で、</p>
<p>　　初会には器を借すとおもふ也<br /> 　　始終来もしようか位いで初会させ〔これからもしょっちゅう来てくれるだろうと推量してのサービス〕<br /> 　　翠帳紅閨<font size="2">(すいちょうこうけい)</font>にけろりと初会の夜<br /> 　　初会には道草を喰ふ上草履〔上草履<font size="2">(うわぞうり)</font>は遊女の隠喩〕<br /> 　　草も木も寝るにまだ来ぬ初会の夜<br /> 　　待たせるだけ待たせておいて、とことんふられたのでは吉原へ来た甲斐<font size="2">(かい)</font>もないと、<br /> 　　投げられもしようかと初会片苦労〔投げられるは、ふられると同義〕</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3>裏</h3>
<p>　二会（回）目は廓内用語で「裏」という。二会目に登楼することを「裏をかえす」という。<br />遊女から見ると、この二会目の客は「裏の客」。</p>
<p>　　二会目はほれそふにしてよしにする<br /> 　　裏の夜は四五寸近く来て座はり<br /> 　　枇杷<font size="2">(びわ)</font>一つ喰たが裏のしるし也<br /> 　　もう裏は西瓜<font size="2">(すいか)</font>くらいをちつと喰ひ</p>
<p>というわけで、初会からみれば、だいぶくつろいだ感じであるが<br />遊女が身も心も許すというところまではまだいかぬようであります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3>三会目</h3>
<p>　三会目の登楼は、はじめて馴染<font size="2">(なじ)</font>みになる機会であるから、相方に気に入られるために、諸事気を配らねばならぬことが多い。特に廓内の特殊な慣習、つまり「廓の諸訳<font size="2">(しょわけ)</font>」を知っておかなければならない。まず、花魁に床花<font size="2">(とこばな)</font>というのを付けなければならない。</p>
<p>　三会目には遣手にも祝儀を出す。そしてこの三会目に、はじめて箸紙<font size="2">(はしがみ)</font>というのができるのです。<br />これは馴染みとなった客専用のもので、客の紋なり、表徳<font size="2">(ひょうとく)</font>（表徳号のこと。雅号・別名・あだ名をいう）なり、本名なりを記して、遊女の部屋の茶箪笥<font size="2">(ちゃだんす)</font>に大切に保管されま</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>見世の格と遊女の格</title>
		<link>http://yosiwara.net/yukaku/10</link>
		<comments>http://yosiwara.net/yukaku/10#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 31 Jul 2008 04:50:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[遊郭吉原]]></category>
		<category><![CDATA[格]]></category>

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		<description><![CDATA[　遊郭には遊郭での遊び方がありました。見世にもよりますが、遊女と遊ぶのには引手茶屋を通さずには遊べません。引手茶屋で宴席の準備をさせ、茶屋男の案内で見世に登楼しなければなりませんでした。 解りやすく言うと、引手茶屋は案内 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img width="550" height="300" alt="oiran01.jpg" src="http://www.yosiwara.net/images/oiran01.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span>
<p>　遊郭には遊郭での遊び方がありました。見世にもよりますが、遊女と遊ぶのには引手茶屋を通さずには遊べません。引手茶屋で宴席の準備をさせ、茶屋男の案内で見世に登楼しなければなりませんでした。<br /> 解りやすく言うと、引手茶屋は案内所。案内所で段取りをして、見世に連絡。そして料理を注文という仕組み。</p>
<p>引手茶屋が全てを段取りし、料理などの中間マージンを搾取、見世は更にそれに上乗せするというシステムだ。</p>
<p>　見世のランクは以下の通り。</p>
<table width="100%" cellspacing="1" cellpadding="1" border="1" align="center" style="">
<tbody>
<tr>
<td valign="middle" align="center" style="text-align: center;"><img width="120" height="160" alt="OOMISE.gif" src="http://www.yosiwara.net/images/OOMISE.gif" class="mt-image-center" style="margin: auto; text-align: center; display: block;" /></td>
<td valign="middle" align="center" style="text-align: center;"><img width="120" height="160" alt="HANNMISU.gif" src="http://www.yosiwara.net/images/HANNMISU.gif" class="mt-image-center" style="margin: auto; text-align: center; display: block;" /></td>
<td valign="middle" align="center" style="text-align: center;"><img width="120" height="160" alt="KOKOUSI.gif" src="http://www.yosiwara.net/images/KOKOUSI.gif" class="mt-image-center" style="margin: auto; text-align: center; display: block;" /></td>
</tr>
<tr>
<td style="text-align: center;">惣（総）籬</td>
<td style="text-align: center;">半籬</td>
<td style="text-align: center;">惣（総）半籬</td>
</tr>
<tr>
<td style="text-align: center;">大見世</td>
<td style="text-align: center;">中見世</td>
<td style="text-align: center;">小見世</td>
</tr>
<tr>
<td style="text-align: center;">揚げ代２分</td>
<td style="text-align: center;">揚げ代２朱・２分</td>
<td style="text-align: center;">揚げ代１分以下</td>
</tr>
<tr>
<td valign="top" align="left" style="text-align: left;"><font color="#000040"><font size="2" color="#000040">格子が見世（みせ）前から入口土間脇まである。揚代１分以下の遊女はいなかった。 茶屋を通さないとあがれない</font></font></td>
<td valign="top" align="left" style="text-align: left;"><font color="#000040"><font color="#000040"><font size="2">土間脇の格子が上半分から四分の一ない。揚代２分以上の遊女が交じっていたので交見世（まじりみせ）とも呼ばれた。茶屋を通さないとあがれない。</font></font></font></td>
<td valign="top" align="left" style="text-align: left;"><font color="#000040"><font color="#000040"><font size="2" color="#000040">格子のすべてが下半分しかない。揚代１分の遊女がいても一人のみ、ほとんどが揚代２朱。&nbsp;                    フリーの客でも大丈夫。</font></font></font></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<table width="100%" cellspacing="0" cellpadding="2" border="1">
<tbody>
<tr>
<th width="44" height="23" rowspan="8"><font size="-1">ランク</font></th>
<th width="90" height="23" align="center"><font size="2">元吉原初期</font></th>
<th width="90" height="23" align="center"><font size="2">元吉原末期</font></th>
<th width="90" height="23" align="center"><font size="2">新吉原初期</font></th>
<th width="90" height="23" align="center"><font size="2">新吉原末期</font></th>
<th width="90" height="23" align="center"><font size="2">以降</font></th>
</tr>
<tr>
<td width="67" height="9" align="center"><font size="2">太夫</font></td>
<td width="87" height="9" align="center"><font size="2">太夫</font></td>
<td width="83" height="9" align="center"><font size="2">太夫</font></td>
<td width="91" height="9" align="center"><font size="2">太夫</font></td>
<td width="54" height="9" align="center"><font size="-1">&#8212;</font></td>
</tr>
<tr>
<td width="67" align="center" rowspan="2"><font size="2">格子</font></td>
<td width="87" align="center" rowspan="2"><font size="2">格子</font></td>
<td width="83" align="center" rowspan="2"><font size="2">格子</font></td>
<td width="91" align="center" rowspan="2"><font size="2">格子</font></td>
<td width="54" align="center"><font size="-1">呼出</font></td>
</tr>
<tr>
<td align="center"><font size="2">昼三</font></td>
</tr>
<tr>
<td width="67" align="center" rowspan="4"><font size="2">端</font></td>
<td align="center"><font size="2">局</font></td>
<td align="center"><font size="2">散茶</font></td>
<td align="center"><font size="2">散茶</font></td>
<td align="center"><font size="2">附廻</font></td>
</tr>
<tr>
<td align="center" rowspan="2"><font size="2">端</font></td>
<td align="center" rowspan="2"><font size="2">局</font></td>
<td align="center" rowspan="2"><font size="2">梅茶</font></td>
<td align="center"><font size="2">座敷持</font></td>
</tr>
<tr>
<td align="center"><font size="2">部屋持</font></td>
</tr>
<tr>
<td width="87" align="center"><font size="2">切見世</font></td>
<td width="83" align="center"><font size="2">切見世</font></td>
<td width="91" align="center"><font size="2">切見世</font></td>
<td width="54" align="center"><font size="2">切見世</font></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　引手茶屋は、揚屋制度がなくなってから出来た制度。<br /> 揚屋の格式ばった制度を多少簡略化したシステムになった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　<font color="#000040">散茶女郎が登場する寛文期に局女郎の揚代が２０匁から１５匁に値下がりする。散茶が１５匁だったため対抗して同値にしたのである。これによって散茶の格が知られる。<br /> 散茶との競り合いに負けた局は、元禄期（1688-1703）に梅茶と切見世女郎へと格落ちしていく。中途半端な格となった端女郎は消滅。<br /> 時代が下るにつれ揚代は上昇し、寛保期（1741-1743）には昼夜で太夫銀８４匁、格子６０匁<font size="2">（元禄以降の公定は１両銀６０匁）</font>、散茶は金３分、金２分、１分の三等に分かれる。散茶の勢いは衰えしらずで、太夫は老舗玉屋山三郎の小紫と、同じく老舗三浦屋四郎左衛門の薄雲の二人のみ。格子女郎も１９人となる。<br /> 宝暦期（1751-1763）になると老舗三浦屋四郎左衛門の遊女屋が宝暦５年に廃絶、一人となった玉屋の太夫花紫が宝暦１０年に消え、揚屋制度も滅び る。散茶のみが勢いを増し明和期（1764-1771）に表のごとく揚代を上げ、三分化したそれぞれに名称が付くようになる。</font></p>
<p><font color="#000040"><font color="#000040"><font size="2" color="#000040"><font color="#ff0000">※１両は４分、１分は４朱、４朱は１０００文。以上は公定相場実際は４朱は１５００文ほどだと思う。よって２朱は７５０文。</font></font></font></font></p>
<p><font color="#000040"><font color="#000040"<br />
><font size="2" color="#000040"><font color="#ff0000">　</font></font></font></font><font color="#000040">天明期（1781-1788）になると、この頃全盛だった扇屋宇右衛門が五明楼と名乗り、これを嚆矢に丁子屋が鶏舌楼、松葉屋が松葉楼と楼号を付けるのが流行り、遂に新吉原の遊女屋は屋号から楼号へと変わった。また遊女屋の主人を以前は「遊女が親父」<font size="2">（きみがてて）</font>といっていたが、これもただ「爺」<font size="2">（おやじ）</font>と呼ぶようになった。</font></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>廓内に従事する人々</title>
		<link>http://yosiwara.net/yukaku/11</link>
		<comments>http://yosiwara.net/yukaku/11#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 31 Jul 2008 03:18:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[遊郭吉原]]></category>
		<category><![CDATA[人々]]></category>

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		<description><![CDATA[　廓内には様々な人々が生活し、従事しています。花魁を初めとする遊女達だけではないのです。当然ながら男衆も居ます。基本的に廓内の男衆は裏方仕事。年を取っても「若い衆」といわれてました。&#160; 楼主見世のオーナー 番頭 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="display: inline;" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img width="550" height="300" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" class="mt-image-center" src="http://www.yosiwara.net/images/kuruwa.jpg" alt="kuruwa.jpg" /></span>
<p>　廓内には様々な人々が生活し、従事しています。花魁を初めとする遊女達だけではないのです。<br />当然ながら男衆も居ます。基本的に廓内の男衆は裏方仕事。年を取っても「若い衆」といわれてました。<br />&nbsp;</p>
<p><strong>楼主</strong><br />見世のオーナー</p>
<p><strong>番頭</strong><br />実際に見世を切り盛りしていた人。若衆に仕事の指示などをする。</p>
<p><strong>妓夫（ぎゅう）</strong><br />別名「牛太郎」とも言われた見世の客引き。見世の入り口の番台に座ってお客の呼び込みをした。<br />付き馬という集金係の様な事もする。</p>
<p><strong><font color="#333333">女衒（げせん）</font></strong><font color="#333333"><br /></font>今で言うところの、遊女のスカウトマン。</p>
<p><strong>見世番</strong><br />見世の中の雑用係。道中時には傘や提灯を持つ。</p>
<p><strong>二階番</strong><br />遊女の床は大体二階。二階での様々な雑用をする係。</p>
<p><strong>不寝番</strong><br />夜中の見張り役。火の用心や揉め事の仲裁なども勤める。</p>
<p><strong>料理番</strong><br />料理などを作る人。</p>
<p><strong>二階廻し</strong><br />夜な夜な各部屋を回り、行灯の油を足す係。</p>
<p><strong>掛け廻し</strong><br />ツケの集金等をする係。ツケが利いたのは、武士や常連客のみ。</p>
<p><strong>中郎</strong><br />見世の雑用係。見世前の掃除、一階の掃除などの雑用一般。</p>
<p><strong>亡八（くつわ）</strong><br /><span style="font-size: 100%;"><font><font color="black">孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥の八つを忘れた無法者。<br />楼名主の事を表していたが、その後足抜け等の廓内を取り締まる人々の事も指した。</font></font></span></p>
<p><span style="font-size: 100%;"><font><font color="black">　孝＝祖先によく仕える<br />　悌＝年長者によく従う<br />　忠＝無私の心<br />　信＝誠実さ<br />　礼＝敬意をつくす<br />　義＝たてまえを重んじる<br />　廉＝利益に心をひかれない<br />　恥＝やましく思う</font></font></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに、当時の日本は身分制度がありました。<br />いわゆる、「士農工商穢非人」</p>
<p>廓を出る事が出来た遊女は町人として生活を出来ましたが、吉原の若い衆などは、吉原を出た後も町人とはみなされる事がありませんでした。今の歌舞伎役者もこの穢非人の部類でしたし、川原乞食などと呼ばれていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>花魁になるまで</title>
		<link>http://yosiwara.net/oiran/12</link>
		<comments>http://yosiwara.net/oiran/12#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 31 Jul 2008 01:08:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[傾城　花魁]]></category>
		<category><![CDATA[禿　新造]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://yosiwara.net/?p=12</guid>
		<description><![CDATA[　花魁には誰でもなれたわけではありません。子供の頃から廓内で姐さん方に従事し、きちんとした教育を受け、花魁としての「美貌」「教養」「芸事」「書」等がきちんと出来なければなれなかったのです。 &#160;禿(かむろ） 　禿 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="display: inline;" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><br />
</span></p>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><br />
<img width="550" height="300" alt="kamuro.jpg" src="http://www.yosiwara.net/images/kamuro.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /><br />
</span></p>
<p>　花魁には誰でもなれたわけではありません。子供の頃から廓内で姐さん方に従事し、きちんとした教育を受け、花魁としての「美貌」「教養」「芸事」「書」等がきちんと出来なければなれなかったのです。</p>
<p>&nbsp;<strong>禿(</strong>かむろ）</p>
<p>　禿（かむろ）は少女時代から、花魁になる為の教育を受け、その中の数人だけが花魁として店に出る事を許されました。禿は７歳～８歳から姐さん方に付き、花魁の食事の給仕やたばこの吸いつけ、廓内の小間使いなどをしながら、三味線や唄、書などを習います。</p>
<p>　その中でも器量の良い子は、引っ込み禿となり、姐さん方の手を離れ廓主や内儀から新造になる為の英才教育を受けます。新造になる為の引っ込み禿の年は、大体１３歳から１４歳といわれます。将来上位の遊女になることを約束された禿だけが、引っ込み禿になることを許されたのです。</p>
<h3>&nbsp;新造（しんぞう）</h3>
<p>　禿を経てその上の新造になります。新造には振袖新造、留袖新造、番頭新造の三つがあります。<br />
振袖新造はまだまだ姐さんの見習いをする立場で、客を取る事はありません。<br />
１８歳になっても独り立ちが出来ず、姐さんの世話になりながら客を取る新造を留袖新造といいます。<br />
番頭新造は大体３０前後。身請けされないまま年季を過ぎた子達が再び廓内で働く為になること。<br />
番頭新造は経験も豊かですから、花魁の身辺の用を勤めたり、茶屋に出向き初回の客の品定めをしたりと、花魁の引き立て役や相談役になってあげるのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3>&nbsp;遣り手</h3>
<p>元々は遊女で、３０歳以上の者がなった。<br />
遊女の値段を決めたり、酒宴の内容を決めたりと、見世の実質的なマネージャー役をこなす。<br />
一人の遊女に付くのではなく、見世全体の遊女の切り盛りをしていた。遣り手婆の語源。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>花魁とは</title>
		<link>http://yosiwara.net/oiran/13</link>
		<comments>http://yosiwara.net/oiran/13#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 30 Jul 2008 07:57:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[傾城　花魁]]></category>
		<category><![CDATA[位]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://yosiwara.net/?p=13</guid>
		<description><![CDATA[　吉原遊郭の中で最高に位の高い遊女を、花魁と呼びました。 最近ではあちらこちらで「花魁」の名前が挙がりますが、吉原遊郭以外の高級遊女を「花魁」と言うのは間違いであります。 　花魁にも様々な位があります。 ●太夫：高級遊女 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;">　吉原遊郭の中で最高に位の高い遊女を、花魁と呼びました。</span></p>
<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img height="300" width="550" alt="oiran.jpg" src="http://www.yosiwara.net/images/oiran.jpg" class="mt-image-center" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" /></span>
<p>最近ではあちらこちらで「花魁」の名前が挙がりますが、<strong>吉原遊郭以外の高級遊女を「花魁」と言うのは間違い</strong>であります。</p>
<p>　花魁にも様々な位があります。</p>
<p><strong>●太夫：</strong><br />高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいません。<br />高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられています。<br />宝暦年間（18世紀中頃）に吉原の太夫は姿を消した。</p>
<p><strong>●格子：</strong><br />太夫に準ずる遊女でありますが、やはり宝暦頃に姿を消しました。</p>
<p><strong>●散茶：</strong><br />元々は太夫・格子より下位の遊女でありましたが、後に太夫・格子がいなくなった為高級遊女を指す言葉に。</p>
<p><strong>●座敷持：</strong><br />普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。</p>
<p><strong>●呼出し：</strong><br />散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。<br />&nbsp;</p>
<p>基本的に呼び出し以上を花魁と呼び、それ以下は花魁とは言いません。<br />万治元年（1658）の吉原細見によれば、太夫3人、格子67人、局365人、散茶669人、次女郎1004人である。また、安永4年（1775）の吉原 細見によれば、散茶50人（内、呼出し8人）、座敷持357人（内、呼出し5人）、部屋持534人など（総計2021人）となっています。</p>
<p>　花魁は傾城とも呼ばれた訳は、城が傾くほどの金が掛かるという意味。<br />一度の登楼で今の金額に直すと50万以上は掛かったと言われます。<br />全ての芸事に秀で、美貌も備えた花魁に会うには並大抵な事では無かったのです。<br />島原などが、発祥の地。<br />帯は心という字のように結びました。</p>
<p>京都の女歌舞伎からきたもので、舞に秀でたものを「舞太夫」、能に秀でたものを「能太夫」などと呼んだのが、語源の発祥と言われています。それに太夫は、公家や皇族の相手がほとんどでしたので、教養に長けたものではなくてはならなかったのです。</p>
<p>　花魁の語源も、禿達が「おいらの姐さん」と言ったのが訛っただとか、人を騙すに尾はいらんと言葉遊びから来たとか、様々な話がありますが真相は定かではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>先ほども記載しましたが、花魁は基本的には吉原の最高位の遊女。<br />のちに各地の岡場所での高位の遊女を、花魁と呼ぶようになりましたが、吉原の花魁とは別格の物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>遊郭としての吉原</title>
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		<pubDate>Wed, 30 Jul 2008 02:42:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[遊郭吉原]]></category>

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		<description><![CDATA[　江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町（現在の日本橋人形町）に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="display: inline;" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><br /></span></p>
<p><span style="display: inline;" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img height="300" width="550" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" class="mt-image-center" src="http://www.yosiwara.net/images/yuukaku.jpg" alt="yuukaku.jpg" /></span>
<p>　江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町（現在の日本橋人形町）に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説があります。<br /> 葦（あし）は悪しに通じるのを忌んで、吉と変えられたと言います。<br /> いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭がありました。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりであります（二丁町遊郭）。</p>
<p> 明暦の大火（1657年）で日本橋の吉原遊廓も焼失。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所でありました。<br /> 吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れてもらえず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意。<br /> この際に吉原の営業できる土地は5割り増しにされ、夜の営業を許可されました。<br /> 以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原（略して吉原）と呼びます。江戸城の北に当たるところから「北国（ほっこく）」の異名もあります。<strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　</strong></p>
<table width="200" cellspacing="1" cellpadding="1" border="0" align="center" align:="">
<tbody>
<tr>
<td style="text-align: center;"><a href="http://www.yosiwara.net/images/motoyosiwara.jpg"><img height="250" width="200" style="" class="mt-image-none" src="http://www.yosiwara.net/images/motoyosiwara-thumb-200x250.jpg" alt="motoyosiwara.jpg" /></a></td>
<td style="text-align: center;"><a href="http://www.yosiwara.net/images/sinyoshiwara.jpg"><img height="250" width="200" alt="sinyoshiwara.jpg" src="http://www.yosiwara.net/images/sinyoshiwara-thumb-200x250.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></td>
</tr>
<tr>
<td valign="middle" align="center" style="text-align: center;"><strong>元吉原</strong></td>
<td valign="middle" align="center" style="text-align: center;"><strong>新吉原</strong></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　吉原の周囲はお歯黒溝（どぶ）と呼ばれる幅2間（3.6 m）程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側の大門のみ。外界から隔絶されていました。</p>
<p>　遊女には花魁（おいらん）・新造・禿（かむろ）などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれないない格式の総籬（そうまがき：大店）から、路地裏にある小店までの序列がありました。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるように。<br /> 遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもありました。武士は編み笠をかぶり顔を隠しての訪楼。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城（けいせい）に嫌がられ」とあります（傾城とは城を傾けるような美女のことだが、ここでは遊女を指す）。</p>
<p>　時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていきました。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、金貸しである札差たちの豪遊が知られ、語り草にもなっています。吉原は女性を前借金で縛る人身売買の場所でありましたが、文化の発信地としての役割も持っていたのであります。</p>
<p> 1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可されました。1842年には吉原以外の場所での売春は禁止されました。</p>
<h2>文化の発祥地としての吉原</h2>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="display: inline;" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img height="300" width="550" style="margin: 0pt auto 20px; text-align: center; display: block;" class="mt-image-center" src="http://www.yosiwara.net/images/hiroshige.jpg" alt="hiroshige.jpg" /></span></p>
<p>　多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもありました。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かります。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となって行くのです。</p>
<p>　その最たる物に、プロマイドの代わりとしての浮世絵が在ります。<br /> 著名な浮世絵師はこぞって吉原の花魁の浮世絵を作りました。そこから、吉原細見などの今で言う吉原ガイド帳なるものも発行されていくのです。</p>
<p>　又、落語や長唄、小唄や浄瑠璃といった様々な文化にも影響を及ぼし、それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、人々に語り継がれていく事になるのです。<br /> 人々は非日常の世界を、そこに見出していったのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
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